【井筒俊彦「意識と本質」】松尾芭蕉いわく主体と客体という分断意識が消える瞬間に「本質」が立ち上がる

「さて―」事件を解く鍵となった5・7・5のリズムに気づいたときから、名探偵はリズムに合わせて真相を語りだした。

こんにちは、たわら(@Whale_circus)です。

「お月さま 雲をかきわけ 顔を出す」

この俳句を知っているだろうか。かつて朝日新聞に掲載された俳句だ。

月を擬人化し、地球に生活する人々を照らすために、よいせよいせと、雲に顔を押し付けているような夜空を詠んだ句である。

詠んだのは小学生だった僕だ。夏休みに祖父に促されてとっさに詠んだ記憶がある。新聞社に送ればあら不思議、あっさり新聞に掲載された。新聞紙デビューである。応募が少なかったのだろうか、名句なのだろうか、真相はヤブの中だ。

じいちゃんありがとう。言葉、に興味を持ち始めたのはそれからだったかもしれない。

夏の終わりのほほえましいエピソードは、突如回転し、別の疑問として結晶する。

俳句や詩を詠むとはいったいどういう行為なのか、と。

今回の記事に登場する碩学は再び井筒俊彦である。その著書「意識と本質」は本質論である。

その中で哲学的「本質」をとらえるために俳人や詩人の「本質」論を彼はみていく

ここではかの有名な松尾芭蕉の世界への接し方を見ていく。

1 2つの本質:普遍的「本質」と個体に内在している「本質」

上記の記事にも紹介しているが、僕らは通常、花、石、木という言葉で世界を認識している。

花の「本質」、石の「本質」、木の「本質」を知っているから、それらの言葉を使って指し示すことができる。石を見て花という言葉を使わないし、木をみて石とは呼ばないだろう。それは言語化しなくとも、それぞれの本質を知っているからである。

究極的に、同じ花は二つとしてないが、総称して「花」と呼べることは可能です。あなたとまったく同じ人間はいないが、あなたと僕は同じ「人間」であるのと同様であろう。花を花たらしめるもの、人間を人間たらしめるもの、それが「本質」なのだ。

【試論「意識と本質」】井筒俊彦のいう「絶対無分節の存在」とたわらの不思議体験について・上

つまり、この世界とは普遍的「本質」の網目に切り取られた世界だということです。

しかし別の立場もある。一部の俳人や詩人はいいます。この「本質」は個別的リアリティーを不当に扱っているのではないか、と。例えば、同じ花でも、「いま、この場所に咲いている、僕が見つめている瞬間に立ち上がっている、そのものを独自に存立させる「そのもの性」」を捉えようとする立場のことです。

日常言語(普遍的「本質」)で捉えれば「花」かもしれないが、その詩人が見ているものには「そのもの性」(個別的「本質」)がある。それを詩的言語で捉えるのだ。リルケという詩人はこの立場だそうだ。

芭蕉はその二つを結びつけるような立場をとる。

 

2 芭蕉の世界の眺め方

結論からいえば、芭蕉は普遍的「本質」が個別的「本質」に次元転換する瞬間を詩的言語に結晶させる立場だった。

「俳句とは、芭蕉にとって、実存的緊迫に充ちたこの瞬間のポエジー」であったと井筒はさらりと書いている。

芭蕉にとっての普遍的「本質」は事物の存在深層に隠れた「本質」だ。

存在深層については井筒の説明を借りることにする。

「物と我と二つにになりて」つまり主体客体が二極分裂して、その主体が自己に対立するものとして客観的に外から眺めることのできるような存在次元を仮に存在表層と呼ぶとして、ここで存在深層とは、この意味での存在表層を超えた、認識的二極分裂以前の根源的次元ということである。

井筒俊彦 1991 「意識と本質」pp58

ぼくが何かを見る、のような認識以前の根源的次元に普遍的「本質」が隠れていると芭蕉は考えたのだ。

芭蕉いわく美的修練を積むと、ものへの意識が消える瞬間が、実体験としてあるそうだ。

そして、主客に分断された日常意識が消えたときに、一瞬だけ普遍的「本質」が自己開示するのだ。

この永遠不変の「本質」が、芭蕉的実存体験においては、突然、瞬間的に、生々しい感覚性に変成して現れるのだ。普遍者が瞬間的に自己を感覚化すると言ってもいい。そしてこの感覚的なものが、その時、その場におけるそのものの個体的リアリティーなのである。

井筒俊彦 1991 「意識と本質」pp59

その瞬間に詩的言語でそのリアリティーを言葉にするのだ。このような背景を知るとあの俳句もまた違って響くことだろう。

「古池や 蛙飛びこむ 水の音」

「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」

古池、蛙、岩、蝉。どの存在深層に隠れた「本質」を言葉にしたのだろうか。

 

まとめ

芭蕉の「本質」について井筒俊彦に学んだ。俳句を詠む、それはただ5・7・5のリズムに合わせて言葉を選ぶだけではないのだ。

主客が溶けて混ざりあった根源的次元において、一瞬だけ光る「本質」を詩的言語で捉えようとする熱情に感嘆してしまう。

小学生だった僕は、月と根源的次元で出会ったのだろうか。真相はヤブの中、ということにしよう。

 

読んでくださったかた、ありがとうございます。

たわら