僕の素敵な内観レポート⑤~連鎖と素粒子と光~

さてーー ずぶ濡れになった前髪をかきあげて、名探偵は立ち上がった。

内観に関していくつか記事を書いてきたが、すべてはこの記事を書くための準備だった。内観をくぐり抜けたことによる最大の収穫。一週間ぶっ続けで過去に関して考え続け、記憶をさまざまな角度から眺めた。母と父に与えられていた愛情に気づき、自分の恩知らずに打ちのめされ、そして嗚咽をまじえて涙を流した末に、どこに到達したのだろうか。それを今回は伝えたい。先回りして伝えておきたいが、今回の僕の話はかなり摩訶不思議に思えるかもしれない。けれど、本当に僕の体に起きたことなのだ。ほんとに。

一言でいってしまえば、僕はあたたかな光に包まれた。

頭がどうにかしてしまったのだろうか? さあ、こわいものみたさで読んでほしい。

内観? なんじゃそらという方はこちらの記事から読んでください。

僕の素敵な内観レポート①

僕の素敵な内観レポート④~父親への内観で号泣~

それが起きるまでの思考の道筋

それが起きた6日目まで、内観を通して両親の大いなる愛情を見出し、恩知らずな自分の小ささに打ちひしがれていた。そんな自分にもかかわらず、愛情を注いてくれる両親・家族に感謝の念を強く抱いた。この頃になると、記憶の中の両親の一挙手一投足が自分に与えられた愛情のように思えて仕方がなかった。

そしてふと自分が座っている座布団のことを考えた。ただ単に存在する座布団にすぎない。が、この座布団がいまここに存在することで僕は床に直接座ることなく、体を痛めずに内観することができるのだ。それは一つの驚きだった。僕はこの座布団の制作に携わった人々に感謝していたからだ。その方々の存在に感謝したのだった。見ず知らずの誰かの時間と労力が割かれた制作物が今の僕を助けてくれている。ありがたいことだ、と。

座布団と製作者という構図を母や父に当てはめるとどうなるのだろうか、と明確に意識したわけではないが、気付けば母の母について考えていた。つまり、母に大きな愛情を注がれている僕は母を存在させてくれた母の両親に感謝したほうがよいのではないか、と考えたのだ。祖父母がいなければ、感謝する母親が存在しないのだから。お気づきの方もいるかもしれないが、この感謝の連なりは無限だ。言うまでもなく、母の祖父母のそのまた祖父母、そのまた祖父母、そのまた祖父母、、、というふうに。どこまでつながるのだろうか。

中村文則の「生の連鎖」

この無限の連鎖について思い当たるのと同時に脳みそのどこかで、小説家・中村文則について考えていた。ちょうどその頃、中村文則ブームに突入していて、彼の小説を立て続けに読んでいた。僕は気になる作家をみつけるとほとんどすべての著作をつづけて読み、世界の何が彼なり彼女なりを引きつけるのかを理解したい性分なのだ。現場を押さえるために犯行グループを追尾する麻薬取締官のように。

中村文則の小説には「生の連鎖」に言及する箇所が多い。

現在というのは、どんな過去にも勝る。そのアメーバとお前を繋ぐ無数の生き物の連続は、その何億年の線という、途方もない奇跡の連続は、いいか? 全て、今のお前のためだけにあった、と考えていい(何もかも憂鬱な夜に pp154 集英社文庫)

圧倒的に凄まじいこのミクロの素粒子の仕組み、その集合であるこの世界、ビッグバンで生まれ、0.01秒後に1000億度になり、三分の間にヘリウムなどの原子核ができたこの約137億年前から続く圧倒的な”世界”が全て、今のあなたの物語の土台にあるのです。私達の生は、この圧倒的なシステムによって支えられている。だからこう言い換えることもできる。これらの凄まじいシステムは全て、生まれてきた我々に与えられたものであると。つまりは全て、あなたに与えられたものであると。(教団X pp479 集英社文庫)

あれを経験するまでは、理論上はたしかにそうだけどいまいちグッとはこないかなぁ、くらいに思っていた。だが、ここで内観を通じて得た「感謝の無限の連鎖」と中村文則のいう「生の無限の連鎖」が頭の中で重なったのだ。

母から始まった感謝の連鎖の行き着く先は、突然発生した素粒子だ。つまり僕はその素粒子の発生に感謝できるということなのか? さらにここで思考は進む。素粒子に感謝することができれば、素粒子が生んだ全てに感謝することになる。ビッグバンから現在までの世界の全てに感謝をすることになる。その大いなる流れが母を存在させ、僕を生かしてくれているのだから。この世界すべてが僕の生を支えてくれているのだ、と。

降り注ぐ光

あらゆるものが僕を生かしてくれていると思い当たった瞬間に、僕の体に重い衝撃が走った。胸を内側からあたたかな何かが突き上げ、顔を上に向けると、そこに光をみた。何かに大いなるものに照らされているという感覚。そして五感で切り取ることのできるこの世界の向こう側が知覚できるように顕現したのではないかという直観。腹の底から溢れるあたたかな何かに満たされていく。崇高で無限に近い動かしがたい何かに自分がまるごと含まれていて、無条件に受容してくれるという安心感。それら全てが一瞬のうちに体を通り抜けた。

これは現実に起きた事実だと僕は信じて疑わない。控えめに言っても頭がいかれちゃってるんじゃないか、と疑う人がいるかもしれないが、ほんとなんだから仕方がない。

大いなる存在が存在する確信

この得難く、貴重な体験をして、良かったと素直に思える。とてつもなく大きな何か、としか形容できない存在がこの世界の向こう側に存在しており、その存在を五感で切り取った部分が現前する世界なのだ。例えば視界に限れば、目に映るひとつひとつが大いなる存在の顕現したかたちなのだ。そしてまた、僕もその一部なのだ。

向こう側の存在というのを頭では理解していた。

向こう側からエネルギーを【~ヨーロッパ思想を読み解くーー何が近代科学を生んだか~】

それが体験できたというのが、今回の内観の収穫といえる。体ごと理解することで、その存在を信じることができるようになったからだ。この世界は大きな存在に支えられているのだ。

実はまだ二つほど語らなければならないことがある。1つ目は実は光に照らされたことが初めてじゃないこと。それははじめて小説を書いたときのことを語る必要がある。

もう一つは、大いなる存在とその顕現であるこの世界、という枠組みは非凡な言語学者 井筒俊彦の代表作「意識と本質」によってすでに理論化されていたのだ。内観のあの経験はこういうことだったのか、と後から整理できた。この二点についてはいずれ記事にする予定。

 

さあ、内観に興味がでたらチャレンジしてみてください。そしてあなたの物語を教えてください。

読んでくださったかたありがとうございます。







コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA