【小説塾全6回コース・第4回講評】なぜわかりにくく書こうとするのでしょうか

「さてーー」不自然なくらい大きい咳払いが、山中に響き渡ると、名探偵は事件の全容を語りだした。

2018年1月から受講している薄井ゆうじ氏の「小説塾・6回課題コース」の第4回課題への講評が返ってきました。

毎回家に届く、小説塾の封筒を見ると、とてもわくわくします。

前回はあまり褒められなかったなあ。

【小説塾全6回コース・第3回講評】この先には、何もありません

 

まずは今回の課題から説明しましょう。

【課題】与えられた舞台のうえで別の物語を立ち上げる

第4回の課題は薄井ゆうじ「蠍座カレンダー」の世界観のもと、自分の物語を立ちあげる、というものでした。

蠍座カレンダーは荒野を舞台に物語は進みます。いくにちも荒野を歩き続けた男は寝不足と不注意が重なって赤い蠍を踏みつけてしまい、毒針をその身に受ける。命はあと七日と宣告される。青い蠍が毒を中和する、というのはただの迷信じゃないと、「ネクタイを締めてきちんとした紳士の格好をした」ハイエナに教えられる。オアシスで青い蠍を見つけた主人公は、命についてある深い洞察を得て、物語は終わる。

国語の教科書にも掲載されたこともあるこの物語をみなさんもぜひ読んでみてください。最後のひとことに達するために物語は動いていたのだとわかります。

要するに、荒野を舞台に別の物語を生み出す、ということです。400字詰原稿用紙25枚以内。

小説「花束ルーレット」

あらすじはこんな次のようなものです。

明日小学校への入学式を控える孫の千夜子(ちよこ)は祖父の似森に、写真を手にして、寝る前の小話をするようにせがむ。その話を同級生にして、友達をつくるのだと意気込んでいる。昔の写真に顔をほころばせた似森は遠い過去について語り出す。

ある日突然、突発的に耳が聞こえなくなった30手前の似森(にもり)。それほど親しくなかったはずの高校の友達柴内(しばうち)からアメリカに遊びに来て、療養しにこいよ、と連絡が来る。

しかし、空港に着いても柴内は現れない。突然、ここにいるから探しに来てくれ、と携帯にメッセージとともに荒野の写真が添付されていた。何の特徴もない、夜の荒野の写真。

柴内と連絡がつかなくなった似森はタクシードライバーに話しかけ、写真が地域の民話を表した絵だと説明される。
錯乱した男が、助けにきた愛する女性をドッペルゲンガーと間違えて、恐怖し、転落死したという民話。

その場所を知っているというタクシードライバーの青年フレッドの家族が経営するモーテルに世話になる。道中で、似森はこれまでの人生を語った。祖母のサラは似森の生い立ち、家族構成、その悩みなどを会って一目で言い当てた。似森はサラの力に特殊な力の存在を認め始めていた。サラに民話の場所を教えてもらい、荒野を一人歩いた。

岩山で月を見上げるも、誰もこない。と思った矢先に、柴内が背後から首筋に冷たい刃物を当てる。振り返ることが許されない状況で、似森は過去を振り返るように柴内は伝える。似森が柴内を助けたあのシーンを思い出すように。

そして似森は柴内が口にした「走馬灯のなかでセリフある人物として登場させてくれよな」というセリフをたよりに記憶を思い起こす。高校生の似森が柴内に見出した自殺の雰囲気をかき消すために吐いた言葉だった。似森はそのセリフを当時書いていた脚本のために作り出したことを思い出す。物語を立ち上げる行為を、心が求めていたことを似森は認める。

似森が聞こえなかった言葉は、似森の下の名前だったことに気づく。自分を見失っていた似森は心が求めるものに気づいた。

瞼を閉じかけた千夜子にすべてを語る時間はなかった。サラが似森の指示通りに動いていたこと、フレッドの車にサラが盗聴器を仕掛けていたことなどは話す必要なないだろう、と。

最後に似森は千夜子に友達づくりのアドバイスを送る。

「大きくなって思い出すために遊ぼうって誘うのさ」

 

これが花束ルーレットのあらすじです。興味を持てましたか?

さて、講評はといえば、まったくのだめだめでした。

 

わかりにくい、人物が地に足をつけていない

薄井ゆうじ氏の講評は過去の講座から一貫している。わかりにくく、人物が地に足をつけていない

わかりにくい

千夜子の登場が小説に対して機能していない。千夜子の母親はどこにいる?千夜子と似森の会話はいつ、どこの話なのか。なぜ、柴内は空港に迎えにこなかったのか。わからないことが多い。

それは、作者の都合でそうしただけに過ぎないのではないか、と。

小説の登場人物が地に足をつけてない

主人公や登場人物の、人間としての自然な欲求から起こした行動ようには感じられない。つまり、作者の作為が見え透いている。

 

小説への姿勢を根本的に変えることを決意

はじめて書いた小説「クジラのサーカス」の講評からこの2点はずっと指摘されていました。

「小説塾」からの講評とアドバイス、そして僕の現在地について

改善しようと意識をしていたし、実際心がけていたのだけど、正直に言えば、何回も指摘されていながら、心の底から、納得していなかったのです。

だいたい地に足を着けた人間を小説にしたって面白くないじゃないか。不思議なことが起きてこそ、現実には見られない物語を立ち上げることができるのでないか、と。

とても傲慢でした。今回の講評でやっと体の奥から僕の小説の抱えている問題がわかりました。不思議ありきの小説ではいけないのです。

この点については、また別の記事にあらためてまとめます。自分のためにも書いて整理することが重要だと思うからです。

 

読んでくださって、どうもありがとうございます。

 

たわら