目の前にある生命なき身体と記憶のなかの生命ある身体の落差

「さて――」名探偵は過去と現在の落差に真相を見た。

こんにちは、たわら(@Whale_circus)です。ツイッターで小説執筆の文字数を毎日つぶやいています。

祖父が8月24日に急逝しました。山口県まで帰省し、通夜・告別式に参加してきたのです。そのためにここ3日間ブログを更新していませんでした。

祖父が亡くなった、この事実に際して、自分が抱いた気持ちを残して置きたいと思います。

死を最も感じさせるのは、生命を失った身体に直面したときだった、というのがこの3日間で考えたことです。

死と生命について

通夜・告別式・火葬といった一連の儀式をもって、遺族である僕らは社会における祖父の死を完了させました。社会のなかで祖父の死を適切に位置づける過程に当然孫である僕も参加しました。

そのなかで僕をもっとも揺さぶったのは生命なき身体でした。かつて幼いころ親戚が亡くなったときは、収骨がもっともおそろしかったと記憶しています。とにかく普段見ることのない人骨を前に揺さぶられたのです。霞んだ白、いびつな骨の欠片、黒い衣装と白の明確なコントラスト、日常にはない手順や音。幼い僕にとって死とは白い骨につながっていました。しかし今度の場合、白い骨よりも生命なき身体が強烈な印象を残したのです。

二つの場面で生命なき身体は存在感を放ちました。

帰省すると玄関のすぐ近くの畳の間に祖父は棺桶の中で横たわっていました。顔は柔らかくて冷たかった。そして静かに眠っているような顔でした。もう一つの場面は納棺師が祖父に化粧を施し、スーツを着せようと作業しているときでした。この二つの場面で特に生命なき身体の存在感が迫ってきました。

生命の欠落という事実を僕に容赦なく突きつけてきたのです。棺桶に寝ている祖父はいまにも目を覚ましそうでした。しかしそれはどんなことが起ころうとも実現しないことは、祖父の顔に触れればわかります。二度とまたぐことのできない線を向こう側へ超えてしまったという事実。その事実を頭では理解できますが、祖父の身体に触れることで、そこにあったはずの生命の欠落を僕は身体で認めざるを得ません。

納棺師さんが祖父の顔に化粧を施す際に、祖父の口に綿を次々と入れていきます。表情を整えるための含み綿です。そして柔和な顔つきになるように、唇を引っ張りあげ、表情を作りあげるのです。スーツを着せるためには肩の可動域を十分に広げる必要があります。祖父は手を硬直させたまま肘を持たれ、肩を回されていました。そのどちらも僕には生命なき身体の存在を感じさせました。

祖父の生命が失われた、僕がそう思うのは祖父の身体がもはやただの物体に近づいていることを示唆する動きを目にしたときです。唇を引っ張られたり、肌が冷たくなってしまったり。そのようなことは生命には通常起こらないからです。それらの認識は過去の記憶を呼び覚まします。それはつまり、生命ある身体が動いていた過去です。

「よく来たのう」と開口一番で言ってくれたことやら、好きな玩具を買ってくれたときやら、おいしい瓦そばをごちそうしてくれたことや、手を繋いでくれたことやら、俳句を教えてくれたことやら、夜更けに家の戸締まりを再三確認していたことやら。

目の前の生命なき身体は、記憶のなかの生命ある身体を思い起こさせます。そしてその落差に、死を認めることになるのではないでしょうか。少なくとも僕はそう思います。

なんだか当たり前のことのように思えますが、僕がこの3日間で強く思ったことなので、文字にして残しておくことにします。

 

じいちゃん、大好きですよ。

読んでくださったかた、ありがとうございます。

たわら