【試論「意識と本質」】井筒俊彦のいう「絶対無分節の存在」とたわらの不思議体験について・下

「さて――」名探偵は一度はじめた推理をやりとげた。

こんにちは、たわら(@Whale_circus)です。

小説をはじめて書いたとき、そして内観を深めたときに、何か大きいものに触れました。その大きなものとは、井筒俊彦のいう絶対無分節の「存在」なのではないか、と仮説を立てました。

前回の記事で、絶対無分節の「存在」について解説しました。人間の日常的意識は、コトバを手がかりに、絶対無分節的存在に本質という線を引いて、あらゆる存在者を(例えば花や石)を意識しているのです。

【試論「意識と本質」】井筒俊彦のいう「絶対無分節の存在」とたわらの不思議体験について・上

今回はその絶対無分節な「存在」が僕の経験を説明できるかをみていきます。

 

1 小説を書く行為 絶対無分節の存在を分節化する行為

1 小説をはじめて書いたときの現象

暗がりの部屋の中ではじめて小説を書いたときに不思議な体験をしました。気がふれたのかもしれませんが、実際に体験したことです。

登場人物を動かした瞬間に、光に照らされて、体から湧き出る熱を感じたのです。小説を書く、それこそが自分が求めている行為だったのだ、と理解しました。と同時に、ああ、何かとてつもなく大きい存在に触れたのかもしれない、そう思ったのです。

それが絶対無分節の「存在」だったのではないか、という仮説です。

 

2 絶対無分節の「存在」にコトバを与えた瞬間

人間は絶対無分節の「存在」を本質という網目を通して眺めることで、日常的世界を構築しています。椅子と机を区別できるのは、その2つの本質を理解し、かつ、その2つの本質が同一のものではないことを理解しているからです。

小説を書くことは、何もないところに言葉を与える作業です。僕の仮説では、この言葉を与える、言葉を紡ぐ、という作業が絶対無分節の「存在」が分節する行為に当たるのではないか、ということです。

小説に使用される、机や椅子はすでに分節された存在なので、あらためて絶対無分節の存在を分節する必要はない、と思われるかもしれません。つまり、小説を書くことが、絶対無分節の存在の分節行為には当たらないのではないか、と。

しかし小説を書く際に用いられる言葉とは、それがどんなにありふれたものであれ、日常的に使用される言葉とは違うのではないのか、というのが僕の意見です。

机は机でも、小説家が物語に登場させる机は、小説家という存在に影響を受けているはずです。それは一般的な机とは似ているようだけれどもわずかに違うのではないか、と考えます。

この前提に立てば、小説を書く行為は世界のすべてをあらたに創造することになります。それは絶対無分節の「存在」を小説家の手で切り取ることにつながります。

小説家の眼前には絶対無分節の「存在」が立ち現れてくることになります。僕がはじめて小説を書いたときの、何か大きい存在に触れた、という感覚は絶対無分節の「存在」なのではないか、という仮説は支持されるのではないでしょうか。

というより、僕はそのようにあの不思議な感覚を理解しました。

 

2 内観を深めた行為 分節化された存在者の向こう側に無分節化された存在を見た

1 内観を深めたときの現象

内観を深めたときも大いなる存在に触れました。気がふれたのかと思いましたが、実際に体験したことです。内観とは①していただいたこと、②してかえしたこと、③迷惑をかけたこと、の3つについて記憶を掘り起こす作業です。それを朝5時から21時までぶっ続けて、一週間行うことを内観といいます。なかなか得難い経験です。

要するに、父や母などの他者にどれだけ愛を注がれていたかを自覚する行為です

この内観が深まり僕は父や母に注がれてきた愛情を認識し、感謝しました。そして感謝の連鎖に思い当たります。つまり、例えば母に感謝するということは、母を生んでくれた祖母を感謝することにつながります。母、祖母、祖父母……とこの連鎖ははてしなく続きます。

最終的にこの世界に突然現れた素粒子まで感謝の連鎖はさかのぼります。そしてこの素粒子のおかげで母があり、自分自身が存在することに思い当たります。この素粒子に感謝をしないといけないのでは、と僕は考えました。そうすると素粒子が生んだすべてのことに感謝することにつながるのではないかと思考は続きます。素粒子のおかげで今がある。それは素粒子からはじまった世界のすべてのおかげで今がある、という考えにいたりました。

なぜなら素粒子が発現して、そこから生まれたあらゆる力が働いて、祖先が誕生し、一組の男女が時代を追うごとに結ばれているのですから。あらゆるものすべてに感謝できる、と考えた瞬間に、そしてその力は現在も眼前に見いだせるのではないか、と考えたときに、それがやってきたのです。

つまり大いなる存在に触れた、のです。

 

2 存在者の限界線を取り払ったのではないか

この現象を井筒俊彦の絶対無分節の存在でどのように説明できるのか試みてみます。

絶対無分節的存在に言葉で本質を捉え、存在者として存在させる。それが日常的世界の意識の働きであることは繰り返し説明してきました。

内観の深まりの場合、感謝という視点で存在者を分節化している限界線を取り払い、絶対無分節の存在に出会った、というのが僕の仮説です。

個別具体的な存在、例えば母に感謝をすることで、最終的に素粒子の存在まで感謝することができるのではないか、と考え及びました。その素粒子に感謝することで、僕をこの世に生かしたあらゆる流れのようなエネルギーに感謝できると思ったのです。

つまり父や母から受けてきた愛情も、とどのつまり素粒子の誕生から存在する見えない流れの一部なのではないか、ということです。言い換えれば、見えないエネルギーは僕の眼前にときに母という形をして、ときに友人という形をして、ときに座布団という形をして、僕を生かしてくれているのではないか、と考えついたのです。世界に存在する事物のすべては個別性を薄め、何か見えない流れが、僕を生かすために、さまざまな事物に姿を変えて存在しているのではないか。

これは感謝という視点で、母や父や座布団といった存在者の限界線を取り払ったことで、絶対無分節の存在に相まみえた状態のことではないか、と「意識と本質」を読んでそう思ったのです。

内観の深まりの際に、ずどんときたあの感覚は、絶対無分節の存在ではなかったのかと。

 

2回にわたって、僕の人生に起きた不可解で、不思議で、前向きなエネルギーの正体は絶対無分節の存在に一瞬でも触れたからではないか、という仮説をまとめました。

なんとか最後まできましたが、あくまで試論なので、もっとわかりやすくあらためて記事にしたいです。

何より気がふれたのかと心配していた現象に、直接的ではないにしても、理論的根拠のようなものを与えることができてひとまずホッとしています。

 

読んでくださったかた、ありがとうございます。

たわら