【試論「意識と本質」】井筒俊彦のいう「絶対無分節の存在」とたわらの不思議体験について・上

「さて――」名探偵はまとまらない推理をとりあえず披露することで、新しいヒントを得ようとした。

こんにちは、たわら(@Whale_circus)です。

はじめて小説を描いたときに不思議な体験をしました。はじめて内観をしたときに不思議な体験をしました。二つの経験に共通しているのは、何か大きなものに触れた、ということです。

何か大きなものに触れた、という感触はありありと残っています。あの感覚は一体なんだったのか、とずっと気になっていました。それは病的な症状なのかもしれません。しかし、そのどちらも僕を前向きな方向へと導いてくれる契機となっています。

僕が触れた何か大きなものとは、絶対無分節の「存在」ではないかと、井筒俊彦「意識と本質」(1991 岩波文庫)を読んで仮説を立てました

小説執筆と内観で得た不思議な体験は下記の記事にまとめてあります。

【ドッペルゲンガー・落雷・湧き出る熱】はじめて小説を書いたときのはなしをしよう

僕の素敵な内観レポート⑤~連鎖と素粒子と光~

意識と本質の関係について

人間は本能的に、あらゆる事物・事象についての「本質」を求めます。物事の本質を見極める、などという使い方に触れる機会はあると思います。それは日常的意識の基礎的な部分として人間に組み込まれています。

具体的にいえば、例えば「花」に意識を集中させることを考えてみます。花について考えるということです。このとき花に意識を向けるには、花が何であるか、つまり花の本質を捉えていなければいけません。花が石やほうれん草や鳥やライオンとは違うものであると区別できなければ、意識することができないことは当たり前のことです。本質がわからないものに意識を向けることはできません。「グッチリマンセ」に意識を向けることができないように。なぜなら僕が今作った造語に本質はないからです。

つまり我々の日常的世界とは、次のような成り立ちをしていると著者は解説します。

無数の「本質」によって様々に区切られ、複雑に聯関し合う「本質」の網目を通して分節的に眺められた世界

井筒俊彦 1991 「意識と本質」pp9 ※聯関=連関

ではこの本質を言葉で区切る前にはいかなる「存在」が存在しているのか。

その「存在」を本質によって区切る人間の意識の働きを最も的確に描写しているとして、井筒俊彦はサルトルの文章を引きます。

「ついさっき私は公園にいた」とサルトルは語りだす。「マロニエの根はちょうどベンチの下のところで深く大地に突き刺さっていた。それが根というものだということは、もはや私の意識には全然なかった。あらゆる語(ことば)は消え失せていた。そしてそれと同時に、事物の意義も、その使い方も、またそれらの事物の表面に人間が引いた弱い符牒(めじるし)の線も。背を丸め気味、頭を垂れ、たった独りで私は、全くなものままのそのくろぐろと節くれだった、恐ろしい塊に面と向かって坐っていた。」

上掲 pp11 ()内は本文でルビ扱い

この文章を井筒俊彦は下記のように称賛します。

絶対無分節の「存在」と、それの表面に、コトバの意味を手がかりにして、か細い分節線を縦横に引いて事物、つまり存在者、を作り出して行く人間意識の働きとの関係をこれほど見事に形象化した文章を私は他に知らない

上掲 pp11

卑近な例を持ち出すなら「肩こり」が適切かもしれません。コトバで存在者を作り出す例としてはわかりやすいでしょう。

アメリカ人には「肩こり」が存在しないそうです。ただ「肩こり」という言葉と症状(=本質)を伝えると、「肩こり」を意識し、「肩こり」が存在するようになるのです。

無分節の存在に「肩こり」の意味を手がかりに分節線を引き、「肩こり」という存在者を認識したということです。

このメカニズムを徹底的に考えると、上記のような表現になるのです。

「意識と本質」では絶対的無分節存在と本質と意識の関係性に、種々様々な東洋哲学の成り立ちを詳細に検討することで、いくつかのパターンを見出していきます。

しかし私が重要だと強く感じるのは、絶対無分節の「存在」そのものです。我々がそれに言葉を与えることで、絶対無分節の「存在」を縁取り、意識することができるのです。

つまり、我々の日常的世界の向こう側にはとてつもなく巨大な塊が存在しているということです。

下記の記事で向こう側だと説明しているのは無分節的存在のことなのでしょう。

向こう側からエネルギーを【~ヨーロッパ思想を読み解くーー何が近代科学を生んだか~】

小説をはじめて描いたときと内観したときに感じた大いなる存在とは、この無分節的存在なのではないか、という仮説の詳細は別の記事にまとめます。

読んでくださったかた、ありがとうございます。

たわら